「死せる人々」 J・ジョイス  /安藤一郎訳

遂に「ユリシーズ」を読み終えました。長編
というのはずるいですよね。関わった時間
が長いぶんだけ、別れるときしんみりして
しまいますよ。若い頃はこんな気持ちには
ならなかったのですが、人生の残り時間が
減るにつれて、こういう気持ちは強くなると
思います。それでも長編を読むことは止め
ませんけどね。もちろん短編もよみます。

さて、この「ユリシーズ」ですが、どう捉える
べきか?
もし神話との対応やめまぐるしく変わる文体
がなければ、ひどく退屈な話であること、こ
れはジョイスの皮肉かもしれません。「オデュ
ッセイア」は、確かに話は奇想天外で面白い
のですが、個々の人間は平板で個性がある
とはいえません。「イリアス」のほうは、アキレ
ウスやヘクトールをはじめとして個性派ぞろい
です。そう考えると、ブルームの個性だけでも
結構読ませたかもしれません。
ここで神話一般について考えざるをえません。
結局のところ、すべての神話は比喩にすぎな
いのではないか?現代の私たち日本人から
すれば、何をいまさら、と思われるかもしれま
せんが、キリスト教世界に住む人たちからす
れば、そう簡単には首肯できない命題です。
まあこの問題は根が深そうなので、この辺で
止めておきますが、第九挿話でスティーブン
がユニークな「ハムレット」論を披露します。そ
れによると、ハムレットをはじめとするシェーク
スピアの諸作品にはシェークスピアの実生活
の暗喩がばらまかれているというのです。それ
と逆のことが本作品に当てはまるのではない
でしょうか。「オデュッセイア」の物語は、ブルー
ムやスティーブン、モリーの実生活の比喩であ
る、という。
ハムレットがらみでもうひとつ注目すべき点が
あります。同じく第九挿話で、図書館長が「ウィ
ルヘルム・マイスター」の中のハムレット論を持
ちだします。スティーブンは俗論と断じて相手に
しませんが、ここに大きなヒントがあるように思え
てなりません。「ウィルヘルム・マイスター」の中
のハムレット論とは、かいつまんで云えば、英雄
ではなくひとりの人間であったために、悲劇的な
状況に対処できなかった男の悲劇、ということに
なります。「ユリシーズ」ではどうでしょう。ハムレ
ットは自滅しましたが、ブルームは何とかかんと
か生きてゆきます。したたかに、時に傷つきなが
らも。この違いです。ブルームもハムレットと同じ
くひとりの人間です。状況は?父親はトリカブトで
自殺し、妻は裏切り、そして不条理な差別が常に
つきまとうユダヤ人であること。ハムレットが悩み
苦しんだ悲劇的状況に劣ることはありません。こ
のような人間の偉大さを矮小さとともに描き出す、
やはりすごい作家です。
最後に文体について。普通特徴のある文体という
のは、読者に作者の存在を意識させます。ところが
この作品でジョイスがやったことは、ころころと文体
を変えることによって、いやでもジョイスの存在を意
識させました。皮肉やしゃればかりではないと思い
ます。「オデュッセイア」は叙事詩です。翻訳だと忘
れがちですが、詩なのです。ここにも現代の、そして
ジョイスの勝利があります。なにも詩という形式が
劣っているというのではありません。現代の文学に
は形式の捕われない自由があるという意味において
です。これは詩、これはエッセー、これはロマン、これ
はノベル、これはショートショート、これはミステリー、
これはファンタジー、これは純文学、これは通俗小説、
これは中間小説、これは時代小説、これはSF、これは
ポルノ、これは戯曲、これは脚本、これは童話、これは
大人向けの童話、これはノンフィクション、これはスポー
ツノンフィクション、これは対談、これは座談、これはイン
タビュー、これは自伝、これは評伝、・・・一体何のため
のカテゴライズでしょう?何のための拘泥なんでしょう?
自分の立ち位置を確保しようときゅうきゅうとしているだ
けじゃないか、文学は自由なんだ、文学は何でもありな
んだ、そんなジョイスの声が聞こえてくるようです。
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